日本のそばの歴史は、花粉考古学の発達によって、これまで考えられていたよりも遥かに昔、
1万年くらい前の縄文時代にすでに東日本の各地で栽培されていたことが明らかになっています。
古来より山岳密教のメッカであった戸隠には、米、麦などの五穀の持ち込みは禁止されていました。
そのため平安時代の戸隠で修行した山伏達は、山中での修行中にそばを常に所持し、
その実をすりつぶして水で掻いて食べたり、練ったものに梅干しをすり入れ丸薬のようなものを作って
携帯したといわれます。
戸隠の修験者が携帯していたとすれば、そのそばの実は戸隠産であったと考えられます。
つまり平安時代には戸隠でそばが栽培されていたということになります。
当時のそばは現在のように「そば切り」と呼ばれる麺にしたものではなく、
「そばがき」や「そば餅」のようにして食べられていました。
そば切りは江戸時代の初期に江戸で始められていましたが、それより以前に木曽の定勝寺で仏殿修理の際の振る舞いに、
そば切りが出されたという天正2年(1574年)の記録があります。
戸隠のそば切りが文献に初めて登場するのが、宝永6年(1709年)の奥院灯明役の覚え書きで、
戸隠三院を統率する別当などに御祭礼のときに「そば切り」が振る舞われたとあります。
当時の戸隠三院は女人禁制のため在家(私のような一般人)の男衆によって打たれたとあります。
やがてハレの日の特別料理「そば切り」が戸隠講の「振る舞いそば」として徐々に一般的なもてなしの料理として変化していったのです。
当時そば切りは、椀か大きめのそば猪口に盛られ、大根の絞り汁に味噌で味付けされていました。
江戸時代にはすでに戸隠そばの評判は確立していました。
例えば『そば手引草』(安永4年 1775年)という本には、そばの産地として「戸隠・川上を善とす」という記述があります。
『善光寺道名所図絵』(天保14年 1843年)にはそば切りの評価として「第一戸隠、第二相木、第三・・・」ともあります。
おそらく全国から集まった戸隠講の人々が地元に戻り、戸隠そばの評判を口伝したのではないかと考えられます。
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戸隠そばは標高1000メートルの火山灰土で栽培されます。この風土がもっともそばの栽培に適しているといわれます。
そばはもともと肥沃な土地、温暖な気候での栽培には向いていません。戸隠のそばが良質だとされるのは、霧の多い気候が大きな理由でもあります。
戸隠高原は平均気温が低いだけでなく、昼夜の温度差の激しい高原特有の気候であるため蕎麦の甘味が増します。高原野菜が美味しいのも同じ理由ですね。
この激しい気温差はよく戸隠に霧を発生させます。こうした土地に育ったそばは『霧下そば』と呼ばれ、
風味が高く旨味が凝縮されています。
参考文献 「戸隠手打そばの技術」
戸隠そば商監修 旭屋出版